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私が種種の哲学者に触れていき、またそれらを自分なりの解釈によって他人に伝えようとする(伝えようとするという言い方は私の意思に厳密ではない、しいていえば受け取り可能な状態にするが適切であろう。押し付けがましいものは哲学本来の姿ではないと考える。多く私が使う〜ねばならないという表現は自己の自己に対するところの決意の表明であって他人に〜せよと命じるものではないと以後理解されたい)からにはまずその前提となるこの私について論じる必要があるだろう。というのも、もし私が私自身の意思に反して客観的であらず主観性を交えた文章を書いていたとしたならばこれは私という人物がどういったものであるか(仮に私の論じる自身論すら主観的だったとしても幾分のヒントにはなるかもしれないと願う)を示すことによって読者は私のかけた眼鏡をはずすことが可能になるかもしれないからである。

1、宗教論
宗教は哲学と真逆のものである。そして彼は神を信じない人間である。これは彼を理解する上で(あくまで現在の、であるが)大いに重要なテーマではないかと思い自身論の一つとして取り上げてみた。まずは彼が「宗教を哲学と真逆の位置に置く」という理由から明らかにしていくことにしよう。彼は哲学を理の学問と考える。彼はすべての学問は哲学によって説明されるべきだと考え、理論偏重の傾向があり、彼から見た宗教はまるで理にかなっていないように見える。まず前提として話しておかねばならないことだが彼は人間存在を疑うことをしない。正確に言うならば疑う余地はあると考えてはいるのだが(その証拠にマトリックスには大いに感銘を受けた!)人間があるのかないのか、そして今自身が感じているこの意思らしきものは本当に私自身の意思なのだろうかなどということは彼にとってはどうでもいいことなのである。彼は哲学は実学的であらねばならないと考えている。理屈を用いて説明できないであろうことを説明するのは馬鹿げていると考える。つまり例えば人間が存在するのかしないのか、意識は存在するのなしないのかなどということは彼にとってはどうでもよく、実際に「感じられている自分」がさてどうしていったらよいものか(つまり理にかなった道徳や倫理の構築だ!)ということのほうに興味があるのである。さて、彼が理にかなった方法でいろいろなことを解決しようとするとき宗教は不可解である。そして(存在すると彼の中で仮定された)人間をいかなる存在たらしめるべきかを彼が考えるということから彼は人間というものを大いに重視した人間であると考えられる。ある意味では人間偏重である。話がわかりづらくなった感があるのでひとまずここで整理すると今までの事から彼は「宗教を理にかなわないものであるとして考えている。そして彼は幾分人間偏重のところがある」と言えるだろう。さて、さらに私は彼について話を掘り進めねばならないだろうか、そう彼が宗教を理にかなわないものであると考える理由について話をせねばならない。話をなされぬ事柄についてそのまま話をせぬという態度は哲学的ではない、ある人の思想にはかならずそれを説明される必要があろう、なぜなら理のないことは哲学でないとこの私自身が考えるからである。彼に言わせれば(あるいは私に言わせれば、ここまでで混乱してしまった人のために説明をするなら本書は自身による自身論であるからつまり彼と私は同一人物である)考えには理由が必要であるし、理由がなければそれは理屈的でなく、またそれゆえに哲学的でないのである。宗教が理にかなわない。そう彼が考えるのはこの人間が知覚、感覚できないものに対して彼がそれを認めることをよしとしないからである。最前も述べたように彼は今あるもの、現在存在するもの(彼は意識している何かしらの実体、感覚しているなんかしらの実体があることをもって人間は存在しているとする。我々の感覚が実際のものであろうがなかろうが、我々の意識が実際のものであろうがなかろうが彼からしてみれば感じている何か、意識している何かはいまの我々らしきものにとってそれ以外の可能性は持ってもそれ以外を考慮する可能性は持たないと考える)つまり「人間」にしか興味がない。そして人間のかかわる範囲以外のことには同様にして興味を持たないし、またそれを認める意味を認めないのである。哲学を客観的なものであるべきだと訴える彼自身がいくぶん「実学的なもの、人間的なもの」として哲学に対しているということは矛盾しているように思われるが彼の理念は彼が思うには人類の大前提であり、実存する者に対してあくまで理論的であれということのようである。話をもどそう。今までの話から彼が宗教を理にかなわないものであるとする理由は「人間の知覚、感覚不可能なものに対する存在の認定を宗教が行う」からであるという。さらにかれは宗教者に対してこう述べる。「人間が知覚、感覚不可能なものをしてこれを存在とし、またそれに対して信仰することは現実を見つめない逃亡の態度である」と。これは宗教者に対して痛烈な態度である。とはいえ彼が宗教を全く認めないかといえばそうではない。「人間にとっての人生がすべてよいものではない。その意味である期間(あるいは一生のものもあろうが)人生を見つめない態度というものは否定しつくせるものではない。ゆえに私は自身の信仰を認めることはしないが他者の生き方を否定することはできないだろう」としている。しかし彼はもういちど確認する。「人間は実存である。実存であるからには物事の実際から逃げおおせるものではない。人類がすべて実存よりも逃亡を願うとしたなら人類は破滅へと向かうであろう」と。実に彼の言いたいことはこういうことである。「宗教、信仰の対象となるものは多く知覚できないものである。実存たる人間が実存足らぬ何かに信仰を向けることは私にしてみれば人間的でないが人生の苦しみの面を認めれば人間は信仰をもって希望とせねばならぬこともあるだろうということは認められる。だがしかしすべての人間が実存たる人間よりも不可知たる絶対者を重んじるとしたならば人間の尊厳はあらずそれゆえに人間は自ら破滅する」彼が神を信じないのは不可知だからである。そして彼は人間と、人間と関係する存在に対して価値を認めるが故に不可知なる絶対者が人間よりも価値を持つ宗教に対して批判を行うのである。
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